競争社会でへらへら笑って

司法試験という競争社会の中でもへらへらしてる受験生のブログ

33.再読 山月記

ども。あずめろです。

本日は再読 山月記です。

山月記青空文庫で、今、すぐに読めます。ので是非読んでからこの記事をお読みください(高校生の時に読んだ方も多いと思いますが、改めて、今、読みましょう)

www.aozora.gr.jp

なんとなく

今これを2022/09/28 22:22に書き始めたわけですが、突然なんでこんなもの書いているかというと、「たまたま」でしかないでしょう。

今日は11:00から法哲学の自主ゼミ(最終回)があり、それに若干遅刻して参加(ごめんなさい)、その後はプチ打ち上げをして、自習室で憲法の勉強。11:00起床という反人道的行為により眠くなった私は自販機でコーヒーを買い外で一服(今の季節は外の方が心地よい)。おっと、眠気で知能指数が20に低下していた私はコーヒーを服にこぼしてしまう。慌てて吹いたものの服がコーヒー臭に。これにはなえなえということで、積み残していた勉強をして18:00には帰宅。18:00から音楽聞いたり友人紹介のくだらないYoutubeを見たりして22:00。さて、今から司法試験の過去問を解いていては日付を超えるがそれは嫌だなぁ、と毎日同じ言い訳の繰り返し。そういえば、先日泉鏡花記念館の前を通りすぎたが、本棚に泉鏡花の本はあったのだろうかと本棚を一瞥。泉鏡花はなかったが、高校生の時に(そして今も)死ぬほど好きだった中島敦山月記』を手に取る。何百回と呼んだといっても過言ではないけど再読するか、と思い再読。そして、今机の前でPCに文字を打ち込んでいるわけです。

youtu.be

↑くだらないYoutubeの一例。

↑4日前偶然通りかかった金沢の泉鏡花記念館。

↑これは全然関係ない最近の推しサンリオ「がおぱわるぅ」

ただ好きな表現を紹介していきます。

改めて読了、最初に思ったことは。

 

中島敦 天才だ。

 

しかありません。格調高い文章と大陸文化への深い造形、それでいて読みやすく自然と声に出したくなるような、そんな素晴らしい小説なわけです。33歳の若さで亡くなったのが本当に惜しいです。

さて、青空文庫でも無料で見れますので(著作権は切れていますので)適宜引用しながら感想を書いていきます。

ろう西の李徴は博學才穎さいえい、天寶の末年、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。

あ、この短編は名作だ。

もうね、この1文だけでお腹いっぱいです。証左のように私は今日夜ご飯を食べていません。なぜならこの文章が素晴らしすぎるからです。みなさん今、すぐに一文を声に出してみましょう。え?自習室にいる?関係ありません。勉強のしすぎで彼/彼女も虎になりつつあるのだなぁ、と思われるだけですので。

さて、どうでしょう。こんなにかしこまった文章がするすると口からでること、ありますか?内容がなんとなくしかわからないのに我々のDNAに直接訴えるようなこの調子。ほんまにすごい。「性、狷介」のとこで一旦するすると続いた文章が止まり、さらにその先へ進むこの感じ。天才の文章以外の何物でもないわけです

下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。

あ、この短編は(以下略)。

流れるような始まりの後に出てくる表現が、これ。友達にいたら間違いなくめんどくさい李徴ですが、この文章を見るだけでいかに(当時)名声あることをやろうとしていたのか、そして李徴の性格のめんどくささが、ひねくれかげんが伝わるだけです。

一方、之は、をのれの詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の秀才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

ここも良いですね。端的に李徴の過去を伝えていく、その過程でいかに李徴のプライドが、自尊心が高かったかが使わってきます。

その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。

と、ここで李徴の過去編が終了。単行本ではわずか1ページ。ほんとに1ページで収まる。ここまでのリズミカルさが山月記を印象に留め置く大きな要因になっているような気がします(本当に声に出したい、出させたい)。初めて読んだとき(こういうのは往々にして授業中に、しかも今授業で扱っているのとは違う作品である)、「え?李徴おわり?」と思うわけですね。

翌年、監察御史、陳郡の※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)えんさんといふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於しやうをの地に宿つた。

さてさて、ここで「えんさん」が出てきます。本題スタートです。

驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

来ました。名言一号。「その声は、わが友、○○ではないか?」は、誰もが高校生の時に友人に放つ一言です(私調べ)。短文なのに重厚な設定を咀嚼しながら読んできた読者はここで驚きと興味を抱くわけですね。ここまでわずか1ページ半。控え目いって、神。

「如何にも自分は隴西の李徴である」

来ました。名言二号。「いかにも。自分は△△の○○である」との返答も誰もが一度は通るルートです。小学校1,2年生で先生のことを「お母さん」と呼ぶのと同じくらい確定黄金ルートですね。

しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。

李徴が醜態を恥じながらも旧友との再会に喜び会話を欲する場面。場面は会話フェーズへと移ります。

あとで考へれば不思議だつたが、其の時、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。

「えんさん」後の表現でも「いいやつ」感が出ますがここの表現も結構好きですね。驚きのあまり、というのもありますが、「えんさん」の性格故、なのかもしれません。

次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに死を想うた。

李徴の当時の情景が目に浮かびますね。

しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覺ました時、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばつてゐた。之が虎としての最初の經驗であつた。それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。

李徴😭😭😭

ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、いきどほろしい。しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。之は恐しいことだ。今少してば、おれの中の人間の心は、獸としての習慣の中にすつかりうもれて消えて了ふだらう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋沒するやうに。

自我がなくなるって怖いですね。関係ない、とはならないのが怖いところでしょう。

一體、獸でも人間でも、もとは何か他のものだつたんだらう。初めはそれを憶えてゐたが、次第に忘れて了ひ、初めから今の形のものだつたと思ひ込んでゐるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己はしあはせになれるだらう。だのに、己の中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己が人間だつた記憶のなくなることを。この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成つた者でなければ。

李徴の独白はここでいったん終了します。最後には「!」までついてますね。読者も李徴の経験を頭に浮かべながら「大変だ😭」と思うわけですが、結局真にわかってはいないと言われてしまうわけです。

私はこの、「いや、そんな事はどうでもいい」が大好きなのです。この表現が出る時点で李徴は「えんさん」に自分の過去を伝えるふりをして、実はただ独白をしているだけなんではないかな?と思えるのが良いのです。皆さんもありません?人にしゃべってる風に見えて、実はただ自分の思考の整理のために声を発している時。

何も、之に仍つて一人前の詩人づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執著した所のものを、一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ。

李徴が詩への熱意を虎となった今も忘れていないことが分かるシーンです。ここは後でもわかるように李徴の熱意と、それでいてこれほどの熱意を持った「人間」がもう名人にはなれない、そんな哀愁と執着心が分かるような気がします。

成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。

「えんさん」なかなかに手厳しい(笑)。「何処か欠けるところがある」ってのが、李徴が名人になれなかった原因が(目に見える形で)わからないのを端的に表しています。

舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。
 はづかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐるさまを、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。わらつて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。(袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)さうだ。お笑ひ草ついでに、今のおもひを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。

李徴😭😭

いよいよ自虐し始めます。

偶因狂疾成殊類  災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵  當時聲跡共相高
我爲異物蓬茅下  君已乘※(「車+召」、第3水準1-92-44)氣勢豪
此夕溪山對明月  不成長嘯但成※(「口+「皐」の「白」にかえて「自」、第4水準2-4-33)

漢詩ですね。ここは(今回は)雰囲気でも大丈夫です。

これにて李徴の詩への執着フェーズが終了です。

時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。

場面転換。みなさんはここの表現どう思います?

僕?僕はね。。。

 

名作だ

 

と思いますね。山月記の中でこの一文が一番好きです。本当に。難しい表現を使いながらも、奇怪な状況に出くわして、しかも虎が漢文を詠った後のこのシーンとした雰囲気。哀愁ただようこの感じ。誰もがもはや李徴が虎であることなど忘れ、ただ詩に感嘆しているこの状況。

「既に暁の近きを告げていた」

は?敦中島よ。どう生きたら齢30でこの表現ができるのだ。君は人生3周目か?本当に天才です。

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。

いよいよクライマックス。独白をしていく中で気持ちの切り替えがついたのかもしれません。

人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。をれは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。をのれの珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、おのれの珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚ざんいとによつて益※(二の字点、1-2-22)己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。今思へば、全く、おれは、己のつてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。

もう全文コピペです。山月記が名作たる所以のパートです。今の我々(ブログの読者層の多くは大学生・大学院生でしょうから)にも十分示唆的です。

「臆病な自尊心・尊大な羞恥心」これを初めて授業で聞いた時、教室のだれも李徴を笑うことは出来なかったのではないでしょうか。「あ、自分もこの経験ある。」そう内省した人間しかいないはずです(私調べ)。あまりにも、高校2年生にはクリティカルすぎる言葉です。いえ、なんなら生涯にわたりクリティカルな言葉かもしれません。

ここの表現は擦りに擦られすぎ、また独自の解釈もありうると思いますが、私は今の自分にも十分刺さると思っています。あまりにも鋭利すぎるわけです。ちくちく言葉ランキング殿堂入りです。

人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短い

敦さん。名言オンパレードしすぎだょ😭😭😭。もうこれでご飯3杯はいけます。

嘘でした5杯いけます。

たとへ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。まして、おれの頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。しかし、獸どもは己の聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、たけつてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の氣持を分つて呉れる者はない。恰度、人間だつた頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。

そして後悔。ここまで(山月記)の読者に刺さる言葉を書いた後に、その「末路」である李徴の後悔の念。ここで読者はついに李徴の悩み、悔いがわかる(ような気が)のです(たぶん)。この孤独感。誰もいないとかそういう次元ではない、理解者がいないという絶望的孤独感なわけです。

李徴のめんどくさい性格が、それでいて自分達の心の中にあるものが記述されている感じがします。

そして満を持して登場。

己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

あー。あー。あー。もうここで天を仰がずにはおられまい。最後がこれか。独白の山頂を上ったところでこの景色、このセリフ。完璧、と言っても良いかもしれない。先ほど高校生にクリティカルすぎると書いたわけですが、この格調高い文章と厨二くさい表現、思春期にはあまりにも図星な内容、これを高校2年生の教科書に載せることを提案したやつ。お前も天才だ。誇れ。

漸く四邊あたりの暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。

場面転換。最終章です。転換の表現技法。一生かけてもまねできない。

最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等は未だ※(「埓のつくり+虎」、第3水準1-91-48)くわく略にゐる。固より、己の運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己は既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗だうと飢凍きとうすることのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩かう、之に過ぎたるはい。
 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。

李徴もいいやつだし、「えんさん」もいいやつだ。そう思ったのもつかの間。

李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。
 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己が人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身をおとすのだ。

この自嘲。自虐。卑屈さ。もはや何も言えまい。

さうして、附加へて言ふことに、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)が嶺南からの歸途には決して此のみちを通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。
 袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。
 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

そしてこのフィナーレ。李徴の覚悟も見れますが、むしろ哀愁と悲哀を感じます。

さらば、李徴。

結語

ということで山月記終了。もうね。名作中の名作ですよ。親前朗読なわけですよ。

もう何も言えまいです。

みなさん、改めて読んでみてどうでしたか?

え?

 

それならよかったです。

それではまた。

 

 

 

 

 

 

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